登入無事に退院して、そのまま俺は佐伯の部屋に身を寄せることになった。 母さんと何度か話し合って決めたことで、俺の部屋はベッドも小さくて動線も悪いし、日中は佐伯が大学に通うことを考えると、何かあった時すぐに対応できる方がいい――そういう、現実的で優しい判断だった。 玄関を開けた瞬間、ほんの少しだけ懐かしい匂いがして、同時に胸の奥がふわっと温かくなる。 何度も来ていたはずなのに、「これからここで過ごす」という意識が加わるだけで、見える景色が変わるのが不思議だった。 部屋に案内されて、すぐに佐伯がしてくれたことに気づく。 ベッドの位置が変わっていて、動かなくても手が届く範囲に、水、薬、リモコン、スマホの充電器。 椅子の位置も、立ち上がらなくていいように微妙に寄せられている。 ……全部、俺のためだ。 考えるまでもなく伝わってきて、喉の奥が少しだけ熱くなる。 期間限定とはいえ、ちょっとした同棲みたいで。 体はまだ万全じゃないのに、心だけが先に浮き立ってしまって、隠しきれない嬉しさがじわじわと滲んだ。 だって、これから二週間。毎日、佐伯の隣にいられる。「飯は俺が作るからやんなくていい。掃除もするな。とにかく動くな。ここにある物以外で欲しいのがあったら、いつでもいいから俺を呼ぶこと。分かった?」 畳みかけるような指示は、口調こそ淡々としているのに、全部が心配から来ているのが分かる。 まるで主治医の先生みたいで、思わず小さく笑ってしまった。「はーい……」 返事をしながら顔を上げると、佐伯がベッドの横に腰を下ろす。 その瞬間、ふっと細く長い息を吐いた。 張り詰めていたものが、ようやく少しだけ緩んだみたいに。 でも、その瞳はまだ曇っていた。 後悔と、不安と、悲しさが、静かに居座っているのが分かってしまって――俺は自然と手を伸ばして、その手を握った。「……佐伯、色々してくれてありがとう」 その一言が、合図だったみたいだった。 佐伯は何も言わずに、俺の肩に顔を埋める。 体重がそっと預けられて、吐息が首元にかかる。 そして、押し殺すみたいな小さな声で、ぽつりと零した。「今はこんなことしか出来ないから」 弱音なんて、普段ほとんど見せない人なのに。 それだけで、どれほど追い詰められていたのかが伝わってきて、胸がぎゅ
佐伯の視線が、俺の手に落ちる。「佐伯が来てくれたから……橋本くんも、高橋も、なんとか無事だった。それだけで、十分だよ」 少し間を置いて、続けた。「……だから、自分で自分を殴るみたいに、責め続けるのは、もうやめて」 その瞬間、佐伯の表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。 息を詰めたみたいに、目を伏せる。 それから、掴まれた袖の上に、そっと自分の手を重ねた。 その直後、控えめなノックの音がして、母さんが病室に戻ってきた。 佐伯は、床頭台の上に置かれた治療と退院計画の紙へ、そっと視線を落とす。「……叔母さん、退院準備の件って、もう南緒さんには――」 母さんは小さく頷いた。「ええ。さっきまで、ちょうどその話をしていて……」 そのやり取りの間、佐伯は俺の方を見なかった。 代わりに、静かに近づいて、俺の膝の上に小さな花束を置く。 淡い色合いの花。 派手ではないけれど、病室の白にやさしく映える。「……」 お見舞い、なんだろう。 けれど花瓶には、すでに昨日の花が活けてある。 ありがたさと同時に、申し訳なさが胸に溜まっていく。 言葉にしようか迷っているうちに、佐伯が母さんの方をまっすぐに見た。 背筋は自然に伸び、逃げも飾りもない。「俺が」 一拍置いて、はっきりと。「南緒さんの、身の回りの世話をするのは……ダメですか?」 空気が、少しだけ張り詰めた。 母さんが戸惑ったように視線を彷徨わせる。「佐伯くんのことは、もちろん信用しているけど……あなたも、まだ大学生でしょう? 息子の友達に、そこまでさせるなんて、申し訳なくて出来ないわ」 その言葉が終わる前に、佐伯は深く、静かに頭を下げた。「……すみません」 勢いのある動作ではない。 けれど、迷いのない、覚悟を伴った動きだった。 俺も母さんも言葉を失い、その姿から目を逸らせない。 頭を下げたまま、佐伯は続ける。「俺と南緒さんは、ただのバイト先の友人関係じゃありません」 そこでようやく、顔を上げた。「……恋人同士です。俺は南緒さんを、心の底から好きで、側に居たいんです。心配で……今は、片時も離れたくないんです」 その声は驚くほど静かだった。 けれど、逃げ場を一切残さない、真っ直ぐな言葉だった。「お願いします。南緒さんの看病を、俺にさせてください」 佐
目が覚めたら、白い天井があって、ベッドの上だった。 あの後の記憶は、ほとんど残っていない。 救急車に乗ったことも、病院に運ばれたことも、断片的なイメージがぼんやりと浮かぶだけだった。 実家から新幹線で慌てて駆けつけたらしい母さんが、ぽつぽつと状況を教えてくれた。 俺はあの時、後頭部と首を強く打ちつけたことで脳震盪を起こし、さらに頸椎を捻挫していたらしい。 吐き気が出たのは、毛細血管に傷がついたことが原因だという診たてだった。 幸い、命に関わるような大事には至らなかった。 けれど、あと二センチずれていたら、目の神経が傷ついていた可能性もある、と医師に言われたそうだ。 退院後も、自宅で二週間ほどは安静にしていなければならない、とも。「……佐伯くんがね」 母さんは、少し言いづらそうに視線を落とした。「おとといの夜、すぐに電話をくれて。ここに着くまでも、着いてからも、何度も謝られたわ」 その声には、ためらいが混じっていた。「『リーダーとして指示した自分が悪い、助けに行くのが間に合わなかった自分のせいだ』って……謝罪と、その言葉ばっかり、繰り返して」 母さんにとっても、その時の佐伯の様子は強く印象に残ったらしい。 小さくため息をつき、肩を落とす。 佐伯は、悪くないのに。 誰よりも早く動いて、誰よりも守ろうとしてくれたのに。 それでも佐伯は、自分を責め続けていたらしい。 母さんがどれだけ「あなたのせいじゃない」と否定しても、頑なだったと聞かされて、胸の奥がきゅっと縮んだ。「……大学には事情を説明してあるから、しばらく休むとして」 母さんは、話題を切り替えるように続けた。「本当は、実家に連れて帰りたいところなんだけど……先生が言うには、負担になるから、長距離の移動はしちゃいけないらしいのよ」 少し困ったように、眉を下げる。「でも、私もこれ以上仕事を休めないし、父さんと今は一緒にいる理緒も……すごく不安がってるから……」 その言葉に、胸がちくりと痛んだ。 自分のことで、家族にまで負担をかけている。それが、どうしようもなく申し訳ない。 俺は、できるだけ明るく見えるように、母さんに笑顔を向けた。「俺は平気だから。もう帰って、理緒の側にいてあげて? 自分の部屋で、大人しくしてるからさ。また具合が悪くなったら、タクシ
「ち、違う。全然大丈夫だから。それより、橋本くんの方が……怖かったでしょ」 橋本くんは下唇を噛みしめながら、何度も首を横に振る。「でも……小瀧さんが、守ってくれたから……」 その一言で、胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。 本当に、良かった。心の底から、そう思う。 けれど、隣で高橋が、苦しそうな表情のまま言った。「……唯を守ってくれて、ありがとう」 その言葉が、どうしようもなく胸に刺さる。 俺は慌てて笑顔を作った。 守れたのか、守れていなかったのか――分からない。 だって、俺の目の前で、橋本くんが身体を弄られたのは、紛れもない事実なのだから。「……橋本くんが連れて行かれなくて、本当に良かったよ。親切心につけ込んでくる、ああいう卑怯な奴っているからさ。今度から気をつけなきゃね。それより今日の夜シフト、女の子たちがいなくて本当に良かっ――」 言い切る前に。 横から、両手をぎゅっと包み込まれた。 思わず言葉を失って、二度、ゆっくり瞬きをする。 顔を上げると、佐伯が俺をじっと見つめていた。「もう喋んな」 静かな声だった。 目を逸らさず、冗談も混じらない、真剣な表情。「……手、震えてる。怖かったんだろ。あんなの、怖くて当たり前だ。隠すなって」 その一言で、初めて気づいた。 自分の手が、指先が、小刻みに震えていること。 肩も、呼吸も、全部がまだ緊張したままだったこと。「あ……」 喉が詰まって、それ以上言葉が出てこない。 顔を上げることも、できなかった。 そのタイミングで、警察官が事情を聞きたいと、橋本くんと高橋を呼びに来る。 二人は何度もこちらを振り返りながら、廊下へ出ていった。 バックヤードに残ったのは、俺と佐伯だけ。 ドアが閉まる音。 外の喧騒が一枚の壁を隔てたみたいに、少し遠のく。 その瞬間、佐伯は何も言わず、一歩近づいて――ぐっと、俺を引き寄せた。 胸に顔が埋まる。 腕が回されて、逃げ場のないほど近く、包み込まれる。 心の底から心配されているのが、その動作だけで痛いほど伝わってきた。 眉の寄せ方も、視線の揺れも、俺から一瞬たりとも離れない必死さも。 それを感じるほど、申し訳なさが込み上げてくる。 安心させたくて、口を開こうとした。 「平気だよ」とだけ、言えばいいはずだった。
「今、店長と責任者が向かってる。勿論、警察も」 遠くから、微かにサイレンの音が重なる。 その音を聞いた瞬間、男たちの顔から一斉に血の気が引いた。 じわじわと距離を取ろうとする二人に対して――佐伯は一歩、前に出る。 威圧するでも、急かすでもない。 ただ、逃げ道を「当然のように」塞ぐ位置に立つ。「被害届を出して、弁護士も付けて。示談って言葉がまだ浮かぶなら、相場だけ教えてやるよ。慰謝料、治療費、弁護士費用込みで――ひとり二百万。つまり、二人合わせて解決金は四百万」 一拍置く。「……まぁ、この状況じゃ無理だけどな。会社も、被害者の親も、示談を選ぶ理由が一つもない」「脅してんのか、てめ――」 言葉を遮るように、佐伯は小さく首を傾げた。「……それを“脅し”だと思える時点で、終わってる。ここまでやっておいて、何で未だ交渉の席に座れてるつもりなの?」 視線を落とし、男たちを順番に見た。「今までは相手が泣き寝入りしてくれたんだろ。弁護士も雇えず、警察も動かず、なかったことにして。でも今回は違う。着手金と成功報酬、二人分で二百万。親が出せなきゃ、俺が出す」 ほんの一瞬、声を落とした。「……まぁ、そもそも、そこが理解できる頭があったら、閉店後の店に侵入して、逆上した挙句にレイプしようなんて考えないか」 感情は乗せない。ただ事実を並べていた。「二人がかりでイキり散らかして。年だけ重ねて、中身は空。喧嘩は弱い、頭は雑魚、判断力はゴミクズ同然」 佐伯は視線を指先に落すと、その一本一本をそっと折り曲げる。「建造物侵入。不退去。威力業務妨害。傷害。それと――“体を触られた”って証言が入れば、強制わいせつ未遂」 男たちが黙り込むのを確認してから、首を傾げた。「……現行犯。証拠も完璧。役満じゃん?」 そこで初めて、ほんのわずかに笑った。「おめでとう。留置場とブタ箱から始まる人生、永久保存版の前科付きだな」 逃げようとした男たちに佐伯は掴み掛かると、そのまま手首を捻るようにして床にねじ伏せた。 その瞬間、店の外から慌ただしい足音が重なって聞こえてくる。ドアが勢いよく開き、私服姿の店長と、ヨレヨレのスーツに身を包んだスーパーバイザーが、息を切らして駆け込んできた。「小瀧くん、佐伯くん! 大丈夫!?」 照明の下で名前を呼ばれて、ようやく現実に引き
次の瞬間、テーブルの角に後頭部を打ちつけ、そのまま床に崩れ落ちる。 鈍く、重い衝撃。骨の内側まで響くような痛みが走った。「……痛…っ…」 視界が、ぐわん、と大きく揺れる。 音が遠のき、照明が滲み、天井が歪んで見えた。「うわ、お前、それは流石にやりすぎじゃねーの」「あ? 別に大したことなくね? コイツ頑固すぎんだもん。これくらいしねぇと、鍵渡さねえだろ」 その会話は、まるで水の中から聞こえてくるみたいだった。 現実感が薄れ、自分の身体が自分のものじゃないような感覚に陥る。「はは、痙攣しちゃってんじゃん。可哀想」 自分がどうなろうと、もうどうでもよかった。 扉の奥で、震えながら息を殺しているであろう橋本くんの姿が浮かぶ。 ――高橋たちのところに……ちゃんと逃げられたかな。 ぐらぐらと揺れる視界の中、床に手をついて身体を起こそうとする。 けれど、腕にまったく力が入らない。「ほら、起きろよー。それとも意識ないままヤられる方が好きか?」「はは、それこの前襲ったカフェの店員じゃん」「結局な、防犯カメラさえぶっ壊せば泣き寝入りだから。余裕余裕」 言っていることも、やっていることも、普通の人じゃないと思った。 それが酒のせいなのか、それとも、もともと半グレのような人間なのか――もう、どうでもよかった。 安い酒の匂いが混じった吐息を顔に吹きかけられ、反射的に顔を背ける。 腰元のカラビナには、束になった店の鍵が付いている。 それを取られたら、橋本くんが掛けた鍵も意味をなさない。 それだけは守らなければ、と、必死に身体を丸めた、その時。 バックヤードのドアが、勢いよく開く音。 続けて、カウンターの扉が叩きつけられるように開く音が、店内に響き渡った。 一瞬で、空気が変わった。 それだけは、はっきりと分かった。 男たちの視線の先。そこに立っていたのは――息を切らしながら立つ、佐伯の姿だった。「何、お前? どっから湧いたん?」「あー、さっきの奴が助けでも呼んだ感じかな?」「……警察呼ばれたらダルいし。こいつもボコって、さっさと行こうぜ」 状況を把握した男が、佐伯に向かって拳を振り上げるのが見えた。「っ、や……やめ……!」 反射的に手を伸ばし、止めようとする。 けれど、その動きを封じるように、もう一人